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【ウ号作戦】
- 2013-04-24 (水)
- 【ウ号作戦】
1943年(昭和18年)5月、なおも攻勢防御案を強く主張する牟田口第15軍司令官は、南方軍司令部での軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説しました。
河辺ビルマ方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とアラカン山系への防衛線前進を主張しましたが、牟田口と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていました。会合の結果、南方軍全体としてもアラカン山系への防衛線前進を図る攻勢防御が妥当という点で一致したものの、稲田正純南方軍総参謀副長などはあくまで限定的かつ慎重な作戦を採るべきという方針でした。
この会合での決定に基づいて、翌6月にビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習では、ミンタミ山系への限定前進でも結局はイギリス軍との全面会戦になると予想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下りました。
同席の南方軍・大本営参謀らからも攻勢防御案に異論は出ませんでしたが、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画は兵站の点から問題視され、演習に列席した竹田宮恒徳王大本営参謀は、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評し、また中永太郎ビルマ方面軍参謀長や稲田総参謀副長らは、補給困難を理由にインパール北方のコヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示しました。
しかし河辺司令官は、アッサム侵攻という考えには反対するが、「わたしは牟田口中将の心事をよく呑み込んでいる。最後の断は必要に応じわたし自身が下すからそれまでは方面軍の統帥を乱さない限り、牟田口中将の積極的意欲を十分尊重するように」と述べただけで、うやむやとなりました。
しかし、こうした懸念にもかかわらず、8月、大本営陸軍部はインパール攻略作戦の準備命令を下達しました。
このときも南方軍は限定攻勢とする修正を指示しましたが、ビルマ方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視されました。
また、アッサム侵攻はこの作戦案には明示されなかったものの、牟田口はなおも密かに企図していたとされ、この作戦の成否を一層危ういものにしていました。
第15軍参謀の木下大佐は、この際の作戦準備要綱で方面軍が作戦意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想しています。
しかし牟田口司令官は当初のアッサム侵攻構想を含む作戦準備に邁進し、8月末には隷下の各兵団長を司令部に呼び、作戦準備を命じました。このとき牟田口司令官は、「もともと本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。糧は敵によることが本旨である。」「敵と遭遇すれば銃口を空に向けて3発撃て。そうすれば敵はすぐに投降する約束ができているのだ。」と発言し、列席の兵団長は司令官の本心を疑ったそうです。
本作戦案は、1944年(昭和19年)1月に大本営によって最終的に認可されましたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていました。
この上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消されていきました。第15軍内部で作戦に反対していた小畑参謀長が1943年(昭和18年)5月に更迭されたのに続いて、ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍でインパール作戦実施に強硬に反対していた稲田総参謀副長が、同年10月15日に突然更迭されました。
こうして作戦に反対する者が排除される様を目の当たりにする中で、反対者は次第に口を閉ざしていくことになります。
また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が、1944年2月に花谷正中将を師団長とする第55師団により行なわれました。この支作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、本作戦であるインパール作戦に何ら修正が加えられることはありませんでした。
【日本軍作戦立案の経緯】
- 2013-04-24 (水)
- 【日本軍作戦立案の経緯】
● 二十一号作戦 ●
インドへの侵攻作戦という構想は、ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった直後から存在していました。
インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点でした。ビルマ-インド間の要衝にあって、連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられました。
日本の南方軍は、「二十一号作戦」と称して東部インドへの侵攻作戦を上申した。1942年(昭和17年)8月下旬、戦争の早期終結につながることを期待した大本営は、この意見に同調して作戦準備を命じました。
参加兵力は第15軍の第18師団を主力とする2個師団弱とされていました。
イギリス軍の予想兵力10個師団に対して著しく少ないものの、ビルマ戦の経験からはこの戦力比でも勝算があると考えたのです。
しかし、二十一号作戦の主力に予定された第15軍及び第18師団(師団長:牟田口廉也中将)はこの計画に反対しました。現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えました。
乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴発の困難などが予想されると主張しました。
現地部隊の反対に加え、ガダルカナル島の戦いの発生もあったため、同年11月下旬、大本営は二十一号作戦の実施保留を命じました。ただし、あくまで保留であったため、現地では作戦研究が続行されることになりました。
● 武号作戦 ●
1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになりました。1943年(昭和18年)前半には、オード・ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍の反攻が可能なことが示されました。
ウィンゲート旅団は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想されました。
日本側では太平洋方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていました。
そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、3月に緬甸方面軍(ビルマ方面軍)を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させました。この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官のビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となりました。
これが司令官の独断専行発生の構造的な要因となり、本作戦失敗の遠因ともなりました。
第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換、つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになりました。
かつては攻勢反対論者だった牟田口でしたが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を変えていました。より西方のチンドウィン河に新たな防衛線を構築することも考えらましたが、乾季には障害として不十分で、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、連合軍の反攻を封じることができるだけでなく、インドの独立運動を誘発して戦争の早期終結につながるとの期待も持っていました。名目上も保留中の二十一号作戦を自らの手で行おうというこの構想は、盧溝橋事件に関与した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もあります。
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